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中興の起こり

三、中興の起こり    

大正時代、林光寺は災厄に会い、本堂が荒廃しておりました。林光寺住職第15世大成は本堂再建を計画するも病にて逝去。その意思を継いだ林光寺住職第16世龍興により、再び本堂再建が進みます。しかし過去最大の寄付金が集まるものの額が足りず本堂建立は困難を極めます。大正15年5月、林光寺15世大成の実弟麻田顕成が発起人となり、林光寺の世話人、後援者ととも本堂再建後援会を設立し、大正15年7月15日寄付金集めの集会を、水戸市下市竹隅町会堂で開催しました。この際、寄付金特別賛助者として画家尾竹竹坡、尾竹越堂が出席しております。寄付金供出の賛同者の要望に応じ、前出の画家2名は「揮毛」の筆を走らせました。なおこの際の寄付金は、一口30円でありました(大正時代の日本郵船の慶応大学出身の初任給が30円であった(出典:「旧制専門学校」p154 日経新書 天野郁夫著)

四、第二次世界大戦を経て

林光寺本堂も、水戸市内を守る陸軍兵舎となりました。
前坊守静子の話では、県道179号沿いを米軍の飛行機2機が機銃掃射しながら、国道方面から水戸駅方向に飛んで行ったそうです。この時、客殿が焼けてしまいました。今の客殿は戦後、門信徒の方々のご支援により、改築されました。

この話を思い出す度に、「無量寿経」の一節を思い出します。世の中が平和で人々が安穏であるようにと祈願する経文です。「無量寿経」には、「天下和順日月清明風雨以時災厲不起国豊民安兵戈無用崇徳興仁務修礼譲(てんげわじゅんにちがつしょうみょうふうういじさいれいふきこくぶみんなんひょうがむゆうしゅうとくこうにんむしゅらいじょう)」とあります。現代語訳は、「天下が太平であり、太陽も月も清く明らかに照らし、風や雨も時に相応(ふさわ)しく、天災や病疫も起こらず、国土は豊かで民は安らかに過ごし、武器を用いるような争いもなく、人々は互いに徳を崇めて仁を尊び、礼儀と謙譲の実践に励む」という意味です。