林光寺について of 林光寺(浄土真宗東本願寺派|茨城県水戸市)

文永2年(1265年)の開基以来、740余年に渡って林光寺は、火災、地震、空襲等による再度の被害を受けながらも、時代の荒波をくぐり抜けてまいりました。今日まで真宗門徒に支えられ、親鸞聖人の教えを守り続けてきた水戸の寺院です。

林光寺開基
寺伝『華輪山林光寺 本堂建立講演書畫会芳名名簿』によると、文永2年(1265年)、水戸城城下、千波湖の北(旧:水戸城下上市寺町)に浄了が開基したのが始まりです。浄了は鎌倉の士人筑後入道尊念の子孫であり、この地に移り住んでおりました。浄土真宗本願寺第2世如信上人が、常陸の国を周遊された折、浄了は法教に帰しました。その際如信上人より、名を如實と授かりました。
水戸酒門へ移転
寛文10年(1670年)に、水戸藩二代藩主徳川光圀により、三畝二十三歩余り(約255.9㎡)を賜り、現在の地(現:水戸市酒門町)に移りました。
中興の起こり
MX-5001FN_20110425_181651_002.jpg大正時代、林光寺は災厄に会い、本堂が荒廃しておりました。林光寺住職第15世大成は本堂再建を計画するも病にて逝去。その意思を継いだ林光寺住職第16世龍興により、再び本堂再建が進みます。しかし過去最大の寄付金が集まるものの額が足りず本堂建立は困難を極めます。大正15年5月、林光寺15世大成の実弟麻田顕成が発起人となり、林光寺の世話人、後援者ととも本堂再建後援会を設立し、大正15年7月15日寄付金集めの集会を、水戸市下市竹隅町会堂で開催しました。この際、寄付金特別賛助者として画家尾竹竹坡、尾竹越堂が出席しております。寄付金供出の賛同者の要望に応じ、前出の画家2名は「揮毛」の筆を走らせました。なおこの際の寄付金は、一口30円でありました(大正時代の日本郵船の慶応大学出身の初任給が30円であった(出典:「旧制専門学校」p154 日経新書 天野郁夫著)
第二次世界大戦を経て
林光寺本堂も、水戸市内を守る陸軍兵舎となりました。
前坊守静子の話では、県道179号沿いを米軍の飛行機2機が機銃掃射しながら、国道方面から水戸駅方向に飛んで行ったそうです。この時、客殿が焼けてしまいました。今の客殿は戦後、門信徒の方々のご支援により、改築されました。
この話を思い出す度に、「無量寿経」の一節を思い出します。世の中が平和で人々が安穏であるようにと祈願する経文です。「無量寿経」には、「天下和順日月清明風雨以時災厲不起国豊民安兵戈無用崇徳興仁務修礼譲(てんげわじゅんにちがつしょうみょうふうういじさいれいふきこくぶみんなんひょうがむゆうしゅうとくこうにんむしゅらいじょう)」とあります。現代語訳は、「天下が太平であり、太陽も月も清く明らかに照らし、風や雨も時に相応(ふさわ)しく、天災や病疫も起こらず、国土は豊かで民は安らかに過ごし、武器を用いるような争いもなく、人々は互いに徳を崇めて仁を尊び、礼儀と謙譲の実践に励む」という意味です。
林光寺の歴代住職は、仏前結婚式の「誓いの言葉」で、この一節を引用して、各々のことばで護寺興隆を宣言してまいりました。
親鸞聖人750回御遠忌事業
平成22年10月、親鸞聖人750回御遠忌法要を翌年に控え、当山林光寺は本堂の改修を行いました。本堂内装改編(襖一式)天水鉢一対
現在の住職は、18世大榮であります。


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